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<私のなかの歴史>「東武」社長 千葉正治さん*2*野武士の商法*アイデア勝負の世界に挑戦
1996/08/06, , 北海道新聞夕刊, 2ページ, 写, 1333文字 書誌情報印刷イメージを表示

<私のなかの歴史>「東武」社長 千葉正治さん*2*野武士の商法*アイデア勝負の世界に挑戦
*潮騒の町で兄と再会
 入隊するとすぐ、関東軍としてソ連と旧満州(現在の中国東北部)国境の琿春(こんしゅん)に向かいました。常に前線を行く、野戦工兵の激しい任務に携わりながら中国を徐々に南下していき、一九四五年(昭和二十年)の終戦は台湾で迎えました。
 マラリアと栄養不良で体を崩し、復員できたものの帰るあてもありません。とりあえず親の実家がある仙台に一カ月、体を休めました。そこで、警察官で、戦時中に道内に招集された二男の兄・正美(故人)が、北海道の根室管内標津町にいることを知りました。マチの名前を耳にしたのも、この時が初めてでした。
 親の安否も知りたく、列車に飛び乗りました。四六年五月、私が二十四歳、正美二十八歳の再会です。駅に降りると、すぐ目の前に海が広がり、潮騒が激しく寒々とした漁村というのが、標津の第一印象でした。
*不平等に大きな不満
 まず、就職口を探すことから始まり、食料品や雑貨を有料で配給する標津町統制組合に入ります。物資を仕分けたり、伝票を切ったりするなどの事務職。妻シゲと、職場結婚したのもこのころです。
 「漁師マチ」標津でしたが、戦後の混乱で物資は乏しく、役場からもらった配給切符を手に、指定の小売店へ行かなければなりません。そこで感じたのが、客に対する売り方の差でした。商店でみそを買う場合でも、漁師の親方にはたるの真ん中からすくうのに、月給取りにはたるの端にこびりついた部分が、同じ値段で売られていました。貧しい人には、常に粗末な対応だったのです。
 地主や名士が商店を経営するケースが多く、「売ってやる」の殿様商法はごく普通の時代。この不平等について、仕事上のほか、消費者としても不満を覚えずにはいられませんでした。特に米は人気が高く、やみ市場で統制価格の十倍以上にはねあがっても、買い手がつきました。樺太から引き揚げが始まり、両親と姉の二女・正子を迎え入れるため、自宅の畑のジャガイモをでんぷんにかえ、米と物々交換したことが記憶に残っています。
*29歳の遅いスタート
 GHQの集中企業排除法施行により五○年、全国の統制組合が解散。私は職を失います。と同時に、「これからは商品の専売の枠が外れ、小売りがどんどん自由化される」と読み、商いの道への志が芽生えました。サラリーマン人生より、自分のアイデアでやっていける世界を選びました。
 というより、地縁や、親が樺太で築いた財産が何もなく、小売りしかやりたいことがなかったという方が、実際に近いかもしれません。名家の娘だった妻はあきれていたようですが、「体は丈夫なのだから、失敗しても仕事は何かある」と、二人で決心しました。
 そうして、選んだ場所が、標津より活気はなかったものの、四方にマチがある根室管内中標津町です。現在の中央通り沿いに土地を借り、千葉商店を開店しました。魚とお菓子と、缶、瓶詰しか置かない三十三平方メートルの小さな店で、行商で稼ぐことになります。五二年八月、二十九歳の遅いスタートでした。
(聞き手・峯村秀樹記者)
 
【写真説明】標津警察署員だった兄・正美(左)と再会を喜ぶ=1946年5月
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<私のなかの歴史>「東武」社長 千葉正治さん*1*野武士の商法*買う人の立場になって考える
1996/08/05, , 北海道新聞夕刊, 5ページ, 写, 1563文字 書誌情報印刷イメージを表示

<私のなかの歴史>「東武」社長 千葉正治さん*1*野武士の商法*買う人の立場になって考える
*米国の業界にヒント
 商売の道に入って四十五年がたとうとしています。リヤカーで魚を運んでいた行商の時も、総合スーパーになった現在も、「消費者ニーズにこたえる」「『売ってあげる』でなく『買っていただく』」という考え方は変わりません。自分が買う立場になって考え、一つ一つ試みては反省という繰り返しです。不思議と「もう、だめだ」と感じたことはありませんでした。今でこそ綿密にできるマーケティングリサーチを、やれるだけやってきた安心感のせいかもしれません。
 小売業の可能性にかけてこの道に飛び込んだのですが、始めた時はすでに二十九歳。一九五二年(昭和二十七年)当時では、ノウハウが一つもないままの船出でした。大きな不安のなかで中標津町を集客エリアに商売していた時、根室管内以外まで一気に商圏を拡大するヒントを与えてくれたのが、アメリカの流通業界でした。今でも、専務の長男・武司(48)と視察に行くたびに、刺激を受けます。
*奥深い小売業の魅力
 「東武」という名には、日本の東で、いたずらに権威に迎合せず、信念を貫く野武士であれ−という意味がこめられています。小売業の奥深さは、知識も資本もない私のような「無」の状態から、正道を歩む「武士」になり得る点にあるのではないでしょうか。それが小売業の魅力であり、私が多角化を志向しない理由でもあります。
 大型ショッピングセンターとして開店した七三年当時、年商八億円だった中標津の店は現在六十二億円に。九月でオープン一周年の二店舗目の端野店は、目標の年商五十三億円に達するめどが付きました。
 故郷は、樺太(サハリン)の豊原郡奥川上村という小さな山村。宮城県の農家の次男坊に生まれた父丑治(うしじ、故人)は、新天地を求め北へ渡りました。私は五人兄弟の末っ子で、母あやず(故人)の四十歳の時の子。私専用に乳牛を買い、母乳のかわりにそのミルクで育てられました。
*役立った家業手伝い
 両親は、とにかく遅くまで働いていました。ジャガイモや麦などの栽培から酪農の兼業を始め、カナダから輸入した銀ギツネを育てる養狐(こ)業へと手を広げた時は、かなりの富を得ていました。二百円札を束にして、神棚に飾っていたほどですから…。でも、ぜいたくな生活とは無縁で、ほかの子と同じく家業の牛乳運びを手伝わされました。十一歳から十リットル入りの缶を持ち、川上炭鉱までの十二キロを汽車で通い、川上尋常高等小を卒業後も、父とともに仙夫(やまご)となって木材を運ぶ仕事が続きました。おかげで、虚弱児だった体は人並み以上に成長し、のちの行商に役立つことになります。
 日中戦争が深まった三九年に、十七歳で樺太庁鉄道員に採用されました。が、目の前に徴兵が迫り、意欲はさっぱりです。そんな時、仕事から解放され、一般教養や軍事教練を習った夜学の三年間が楽しみでした。やがて四三年の二月、仙台第二師団に入隊することが決まり、別れのあいさつで、皆に「これから行きます」と言いました。絶対、死ぬと思っていたから「行ってきます」でなかったのです。あの日以来、私は樺太に帰っていません。
(聞き手・峯村秀樹記者)
<略歴>
 ちば しょうじ 1922年(大正11年)樺太生まれ。戦後、根室管内標津町に移り町統制組合に入社。52年に同管内中標津町に千葉商店を開く。55年中標津町消費生活協同組合の専務理事に就任。69年組合解散後、株式会社東武を設立し、73年にはショッピングセンター東武を開店。82年に増床し、ダイエーと商品供給協定を結ぶ。95年9月には網走管内端野町に東武端野店を出店。中標津町在住。73歳。
 
【写真説明】根室管内随一の総合スーパーに成長した東武の前で
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<けいざいスペシャル あの時…トップが語る>東武*千葉正治社長*大型店の概念 米に学ぶ*店舗面積広げ 独立商圏保つ
1995/07/06, , 北海道新聞夕刊, 6ページ, 写, 1606文字 書誌情報印刷イメージを表示

<けいざいスペシャル あの時…トップが語る>東武*千葉正治社長*大型店の概念 米に学ぶ*店舗面積広げ 独立商圏保つ
 「いかに消費者ニーズをとらえるか」。これが東武の経営の基本理念です。私が小売業に飛び込んで十五年ほどたった一九六八年ごろは、まだ殿様商法の店が各地に目立ちました。そんな時期に偶然出合った本に刺激され、「消費者の要求を考えない商人に明日はない」との思いで、流通の最先端を走る米国への視察を決めたんです。
◆消費者要求知る
 影響を受けたのは、カナダの文明批評家マクルーハンという人の著作でした。そこにはトヨタの消費者ニーズに合わせていく企業理念と、自己の技術への誇りからそれにこだわり続けた日産との比較が書かれてありました。そして、商売に大切なのはトヨタ流の「消費者ニーズの把握」ということを知ったわけです。
 で、それを具体化するには、どうすればいいのか。三つの選択肢がありました。店舗面積の拡大、多角化それに多店舗化です。
 当時、レジスターを購入していた米・NCR社から米国の流通業の実態が書かれた情報誌が送られてきました。この誌上で、規制が少ない中、これらの選択肢を自在に展開しているアメリカの流通業の動向を垣間見ました。「消費者ニーズに応じた商売をするにはどうすればいいか」。その答えを求めて、同社主催の米国セミナーに参加しました。四十六歳の時です。
 セミナーが開催されたのは、オハイオ州デイトン。ドイツやフランスなどヨーロッパを中心に世界十三カ国から流通にかかわる企業が参加しました。英語を話せない私は約一カ月間、通訳の助けを借りて目の下に隈(くま)を作りながら、シカゴのシアーズ・ローバックなど全米のショッピングセンターを見て回り、オーナーたちの説明を受けたわけです。
 「これだ−」。人口約三十万人のデイトンから約百マイル(約百六十キロ)離れた地点にあった人口約二万人の町で、約五百台の駐車場を持つショッピングセンターに出合った時、思わずこうつぶやきました。
◆中標津と似た町
 というのはデイトンとこの町との人口比率、距離が、釧路と中標津のそれに非常に似ていたからです。中標津で独立した商圏を維持し、釧路からの侵攻を止めなければ−という思いもあり、店舗面積の拡大を目指し、この町のショッピングセンターのノウハウを持って帰ろうと思ったのです。
 ただ、帰国してからの具体化が大変でした。まず、物件探しから始めたのですが、長男(現専務)と一緒に車に乗って中標津の町中を走り回りました。ショッピングセンターの設置を決めた場所は当時、町外れの木工場で、その周りには家がぽつんぽつんとある程度。他の商店からは町の商業形態を壊すのか−と、異端児扱いされましてね。
◆店子探しに苦労
 それに、ショッピングセンターが日本にない時代ですから、テナント探しにも苦労しました。釧路や紋別の小売業者へ出向いては、その概念から一つ一つ説明して理解してもらいました。テナントという言葉がない時代。いわゆる未知への挑戦だったんです。
 今年九月末には、北見市に隣接する端野町に二号店をオープンさせますが、こうして苦労しながら蓄積した当時のノウハウがその原動力になっているんです。米国視察で得た考え方を、農作物の自由化、円高への対応、消費者の生活様式の変化など時代に合うように変えていくことが今後の課題となるでしょう。
 <略歴>1922年、樺太(現ロシア・サハリン州)生まれ。72歳。旧制高等小学校卒業後、旧国鉄勤務などを経て、53年に中標津町に魚介類の行商などを行う千葉商店を開業。69年に東武を設立し、代表取締役社長に就任。73年に現在の本店店舗をオープン。
 9月末には、網走管内端野町に売り場面積約9700平方メートルの2号店を出店する。売り上げは95年1月期で約61億円。従業員は約140人。本社は根室管内中標津町東5北1。
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